空は、晴れ渡っていた。この場面にふさわしくない。天はオレに味方しない。そう宣言しているかのように。それでもオレは、腕を振り上げた。喉の奥から、咆吼が響き渡る。叫び声は腕が風を切る音とともに、鈍い衝撃音へと集約されていった。
コンクリートの床の上に、たたきつけられて転がる相沢の姿があった。
10%の思春期 is staring….
相沢がオレを睨んでいる。何をするんだ、俺にはこんな仕打ちをされるいわれはない。そう言いたげに。だが、奴の口は開こうとはしない。口元から血が流れ出している、それが理由ではなく。きっとオレの口から言葉が出るのを待っているから。
オレの口は、言葉を発しない。何も言いたくない。あるのはただ憎しみだけで、それは謂われのない憎しみ、実体の無いもの。それを意味ありげな言葉にすることは、オレにはできない。
目に差し込む光。救いを求めるかのように、天を仰いだ。脳裏に浮かぶ、彼女の言葉。
「ねえ きたがわくん」
「北川君の席って、暖かそうだね」
「あ? ああ、まあそうだな。」
「よく眠れそう。うらやましいな。」
「水瀬はどこでだって眠れるだろ」
「うん。でも、やっぱり気持ちのいいところで寝たいとは思うよ。」
「お前さんさあ。念のために言うと、学校は寝るところじゃないぞ」
「うーっ・・。でもでも、北川君だって寝てるじゃない」
「な、何で知ってるんだよ」
「わかるよ。だって、北川君って、わたしと同じ感じがするから」
「ハァ?」
「たぶん。同じ事、してると思って。」
「まあ、・・・寝てるのは事実だけどな」
「うんっ。だからね、今だけ席代わって。いいでしょ?」
「あ、ああ・・・」
「暖かい・・・くー。」
「・・・・・・。」
額に落ちる、水滴の感覚。涙ではない、天から降り注ぐ、雨粒の先魁。
「なんだよ、今頃になってオレの味方してくれるのかよ・・・。」
降り始める雨。目の前には、まだ転がったままの相沢。明るい友情とはほど遠い場面が、まだ続いている。
「どうせ味方するなら、もっと早く・・・転がってるのが、オレの方で良かったからよっ!」
出る言葉以外に心はない。心以外の何かが体を動かし、左足を思い切り振り上げる。目標は相沢の脇腹。振り下ろす途中でよろめき、体全体ががくりと落ち込んでいく。痛み。
「ちっ、こんな時に側溝にはまるなんて・・所詮これが、オレにお似合いの姿だってのかよっ・・・!」
かっこいいヒーローになんてなれやしない。ちょっと変わったことが好きな、でも普通以上になれないオレは
「でも きたがわくん いいひと」
「そ、そうかな?」
「うんっ。わたしは、そう思うよ。」
「まいったなあ、これでも結構ワルぶってるつもりなんだぜ、お嬢さぁん。」
「うーん・・・でも、わたしの頼み、いろいろときいてくれるし、話ちゃんと聞いてくれるから。わたしにとっては、すごくいい人。」
「はは、まいったなあ・・・。でも、それぐらい他の奴だってするだろ?」
「ん・・・そんなことないよ。北川君と、香里ぐらい、だよ。」
「そうか・・・」
「なぁに? あたしが、なんですって?」
「わ、香里。ううん、なんでもないよ。」
「ほんとかしらあ? あんたたち二人の会話って怪しいのよねえ。ほらほら素直に白状した方がいいわよぉ」
「ふぉんふぉんとになんでもにゃいよ。ひたいよかおり、わはひむひふ。」
「はははははっ、・・・・・は。いい人、か」
「いい人が・・・こんな事しねえよ・・・・」
側溝に半身を突っ込んだまま、オレは両手を路上に広げて空を見上げていた。感覚は、過去の思い出に支配されてしまっている。相沢が起きあがったことを感じ取っても、体は動こうとしない。
衝撃。体が引き上げられ、頭を少しだけ揺さぶられる、揺り起こされたような感覚。相沢の右手が、オレの胸ぐらをつかんでいた。
「なんのつもりだよ。」
相沢の顔が、間近に見える。相沢祐一。相沢祐一。そう、これが、相沢祐一。オレはコイツを殴った。オレが殴った相手。オレが憎い相手。憎むべき相手。殴るべき相手。相沢祐一。
睫毛に垂れた滴が視界を遮る。言葉が甦る。
「ゆういちが くるの 。」
見えない視界の向こうから聞こえてくる脳裏の言葉。
「ゆういちは わたしと くらすの 。」
「誰だよ、それ。」
「祐一だよ。わたしのいとこの。前にも話したじゃない。」
「あたしは聞いたわよ。」
「ああ・・・ああ。オレも聞いた。」
「7年ぶりなんだよ。」
「男・・・だよな、祐一って・・・」
「うん。男の子」
「女だったらびっくり。」
「男、か・・・。いい男か?」
「う~ん、ずっと会ってないから見た目はわからないけど、でも・・・」
「いい男だといいわね。」
「・・・うんっ。」
そのとき、気づくべきだったんだ。いや、違う。本当は気づいていた。
水瀬が心を満たしたい奴はそいつ、祐一なんだと。水瀬にとって、オレはただの友達、寂しい時に心を埋めてくれる、友達。欠片でしかないんだ。
そしてオレは。その現実を受け入れてしまった。自分が欠片であることに気付いてしまったから。欠片は、捨てられてしまうかもしれないから。捨てられない欠片であり続けるしか、無かったから。水瀬への思いは、無くしたくなかったから。
「ゆういちと ともだちに なってね」
ほんの少しでいいと思った。水瀬のそばにいられればいいと思った。祐一の、相沢の友達になっておけば、水瀬が喜んでくれると思った、オレへの好意が少しでも上がると思った。昔オレのいた場所がどんどん相沢に占められていっても、水瀬の目線の先が相沢ばかりになっていっても。ほんの一瞬だけ、水瀬がオレに微笑みかけてくれるだけで、オレは満足してしまっていた。そして、相沢の、水瀬に気がないような言葉を聞いて、オレは希望を持ってしまった。持ち続けてしまった。
「いっそ、ずっとあのままならよかったんだよ・・・」
そうすれば、憎しみも怒りも無かった。ただ笑っていられた。恥ずかしげも無く、一生の友達と言い合っていられたかもしれない。
「いっそ、オレに言ってくれれば良かったんだよ・・・」
そうすれば、憎しみも怒りもなかった。笑って祝福することも、出来たかもしれない。恥ずかしげも無く、最後の勝負と拳で友情を語ることも、出来たかもしれない。
でも。相沢は何も言わなかった。水瀬も、何も言わなかった。
そしてオレは、聞いてしまった。片隅に女子が集まった中で、水瀬が語るのを。
「・・・うん 痛かったよ でも 祐一は優しくしてくれたから すごく幸せだった・・・」
血の気が引いてゆく。言葉が体の筋を走ってゆく。寒い。何もできない。瞼だけは痙攣して。後は何も動かない。ただ座って虚空を見つめる人形のように。感覚は白。流れる、白。
感情が戻ったとき、水瀬が憎いと思った。でも、それは一瞬で消えた。水瀬は、名雪は、オレが決して憎んではいけない存在だから。理屈抜きで、感情のほんの一割でも、そう思ってはいけない存在。
だから、憎いのは、
「お前だッ!」
オレは、現実の視界のすぐ前にあった、そいつの顔を思いっきり殴った。
これ以上、過去は無い。あるのは今、今のオレの感情のみ。
「オレはずっと水瀬が好きだった!水瀬は相沢が好きだった!わかっていた!だからオレは少しでいいと思った!今は少しでも、いつかは全てが手にはいると思っていた!ああ、確かに勘違いさ!身の程知らずの勝手な思いこみさ!吐き気のするような自惚れだよ!だけどな・・・」
オレは再び、相沢の胸ぐらを掴んだ。
「今のてめえは、もっと吐き気をもよおさせる存在なんだよっ!」
左手を振り上げた。その手を制止する声は、右側から聞こえた。
「やめてっ! やめてよ北川くんっ・・!」
振り返る。左手は無意識のうちに下がっていく。泣きながら駆けてくる水瀬と、無表情の美坂が視界に入った。
水瀬は、駆け寄ってくるとすぐに相沢を抱きよせ、泣きながら喚いていた。
「どうして! どうして二人がこんな、こんな事しないといけないんだよ!」
もはや感情は無い。最後の感情までをも奪われてしまった。それが残酷だと感じる心すら無い。
水瀬はまだ泣いていた。後ろから、美坂がゆっくりと歩み寄ってきていた。
「美坂・・・お前が、連れてきたのか?」
「ええ。」
「こんな場面見せて・・・水瀬が喜ぶとでも思ったのかよ・・・」
「思わないわ。」
その顔は、無表情のままだった。視線の先には、抱き合う二人の姿があった。
「だったら、何で連れてきたりしたんだよ・・・!」
「あたし・・・あたし、そんなできのいい女じゃないもの・・・」
その視線の先は、まだ相沢と水瀬がいた。だが、美坂の瞳には、何も映ってはいなかった。
気がつくと、雨はやんでいた。
「名雪ぃ、それに相沢君。今日は、一緒にお昼ご飯食べましょうねぇ」
翌日の、昼になっていた。
「今日も、だろ? いつも一緒じゃないか。」
「うふふふ。でも、今日はね、ちょぉっと違うの。ほら、二人のためにお赤飯作ってきてあげたのよ。」
「お赤飯・・・・」
「オレはゴマ塩持ってきてやったぜ。」
「いや、待て・・・お赤飯は、わかる。何となく俺達への嫌みだということが。しかし、ゴマ塩ってなんだ?なんの意味があるんだ?」
「意味などあるか。赤飯にはゴマ塩が付き物だろう。」
「・・・それだけかあ?」
「疑り深い奴だな。」
「いやしかし」
「いいじゃない。折角北川君が持ってきてくれたんだから。ねっ」
そう言って、水瀬は笑った。笑顔。オレは、それに顔を背けそうになるのを必死で堪えていた。
美坂は、笑っている、相沢も、笑っている。だから、オレも笑おう。それでいいじゃないか。こいつらはいい奴だ。一緒にいて楽しい奴らだ。他に何を、これ以上何を、望むというんだ。
否、一つだけ。一つだけ望むことは。心の奥深く、重りをつけて沈めたはずの10%の感情が、今この場で浮かび上がってこないように。ただそれを願って。
「食べよっ」
完
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※執筆時期不明 「Campus Kanon」続編