パジャマから制服に着替えてる間に、奈緒は考えていた。
「(そういえば私<>、私服もろくなの持ってなかったなー)」
下着もろくなの持ってなかったけど。と、心の中で付け加えた。ここで言うろくなのというのは、彼女の顕在意識としてはあくまで「世間一般の常識からして」という建前になっていたが、深層心理は違った。ろくな服じゃない、というのは、乙坂有宇が気に入りそうな服じゃない、ということだ。しかし奈緒はまだ、そこまで気づいてはいなかった。
「ろくな服ってのは、しかし一体どんな服になるんですかねー」
そういって奈緒は制服の裾を下に引き、着替えを完了した。
「この制服も、すごく目立つけどかわいい制服ってほどでもないし、一体どんな意図があるんすかねー。男子なんか一体いつの時代だって感じの詰め襟だし」
星の海学園は能力者を隔離保護するための学園だから極力目立たないようにと言う意図かとも思ったが、それにしては男子はともかく女子の制服のえんじ色の上着は目立ちすぎる。
「逆に、人目に付きやすいから拉致の危険性が減る、って事っすかねー」
そう考えると確かに、男子の詰め襟も時代遅れで地味だが、それ故にかえって目立つ。そうか、目立たないようにではなくてむしろ逆か。能力者を守るために数多の大衆を味方に付けられるようにしろと。
「そういうことっすか? Sさん」
奈緒はそう言って目の前にはいない「尊敬する人」に問いかけた。Sというのは彼女が尊敬する人の名のイニシャルだが、その人は名を表に出したがっていない事を、奈緒は知っていた。だから奈緒も、表ではその人物の名は決して出さず、「あの人」とか「尊敬する人」という呼び方をしていた。万一にもうっかり名を口にしてしまわぬよう、自分の心の中でもイニシャルで呼ぶように心がけていた。
いつも生徒開室にやってくるずぶ濡れの男<>をヨハネと呼ぶのも、「Sさん」だけを特別扱いして周りにいらぬ疑念を抱かせないように、との彼女なりの配慮だった。
たった一人歩く通学路。上からは有事に備えて外を歩くときは極力友人と行動するよう言われているが、奈緒からしたら友人という存在自体が信じるに値するか疑わしい存在だった。否、正確には、信じるに値するだけの友人がこれまでいなかった。「トモダチ」という看板を掲げただけの、ただの搾取者の手先。そんな人間とはもう関わり合いにはなりたくない。っl<>そして。自分自身も、そういう人間にはなりたくない。
そう理由を付けて、奈緒は一人で登校していた。一人と言っても、人気のない裏道山道を歩くわけではない。寮も学校も、わりと人口の多い場所に立地している。通学時間帯には上から派遣された警備担当者が要所要所に張り込んでいる。勝手な寄り道さえしなければ、そこまで危険なことはない。
むしろ過保護なのではないか、とすら奈緒は思っていた。上の警備行動にではない。前方を歩く一組のバカップル、ではない、バカ兄妹に対してである。
「歩未、この先にマンホールがある。お兄ちゃんの陰に隠れて歩きなさい」
「マンホールがそんなに危険なのですか?」
「マンホールというのはマンが入るからマンホールなんだ。だが、何マンかはわからない。だから危険だ」
「マンといったら多くの鍵っ子は宮沢謙吾を連想すると思うのですが」
「奴は危険だ。なんと言ってもロマンチック大統領だからな。歩未のようなかわいい女の子を見たら口説いてくるのは間違いない」
「歩未は兄様以外に口説かれたりしません」
「俺のようなクズ男に口説かれてしまうようだから心配なんだ」
「兄様はクズなどではありません。以前のようなカンニングももう今はしていないではないですか。それだって、兄様のような生き方がちょっぴり下手ででも優しい人間はあっという間に搾取されて淘汰される現代資本主義社会が悪いのです。そうです、政治と社会が全部悪いのです。兄様は悪くありません」
「あ、ああ。ありがとう。だが、どっちにしてもマンには気をつけないといけないぞ。悪徳営業マンとかな」
「でも、マンといったら普通は正義の味方ではないのですか? ウルトラスーパーデラックスマンとか」
「あれが正義の味方などであるものか。いいからお兄ちゃんの陰に隠れていなさい。何だったらおぶってあげよう」
「やめてください! 歩未はそんな子供ではありません!」
「なんだ、おんぶじゃなくてお姫様だっこがいいのか? お兄ちゃん、高城みたいに筋肉ついてないから、ちゃんと抱き抱えられるか心配だなあ」
「そんなこと頼んでないです! もう、兄様恥ずかしいです!」
「…なんだあいつら…」
延々愚かな兄妹会話を繰り広げる乙坂有宇と乙坂歩未の後ろで、友利奈緒は呆然と立ち尽くしてその光景を見ていた。
どうしよう、声をかけた方がいいのだろうか。二人とも知った仲なのに、無視して通り過ぎるのはよろしくない。しかし、あれは邪魔しない方がいいような気もする。馬に蹴られて死ぬ類の話な気がする。いやでも待て、あの二人は兄妹であって、恋人ではない。何を遠慮することがあろうか。それよりも、他にも通学生が通る往来の真ん中であのような恥ずかしい会話をしているのは、本人にとってもよろしくない。ここは友人として、生徒会の上司として、止めるべきではないだろうか。
友利奈緒は葛藤していた。