岡崎朋也論 [CLANNAD-朋也]
君は、岡崎朋也が好きか? 私は、微妙である。シナリオの行動そのままを字面通りに評価するのであれば、正直好きにはなれない。
岡崎朋也という人物を一言で言い表すならば、「ヘタレ」である。「ヘタレという言葉の定義を知りたかったらCLANNADをやりなさい、その主人公がまさにそうだ」と言っていいくらいのヘタレである。
CLANNAD学園編で朋也はしきりに親友の春原をヘタレ呼ばわりしているが、afterシナリオでは春原以上のヘタレっぷりを見せてくれる。ぶっちゃけた話、ヘタレ同士だからこの二人は気が合ったのだ、とも言えるだろう。
そんな朋也が、私は気にくわない。
では主人公がヘタレなのは嫌なのか、と言ったら、そういうわけではない。かつて、Kanonの主人公相沢祐一はヘタレだと主張し、ヘタレであって欲しいと願い、ヘタレであってくれなくては困るとまで言った、そんなイタい過去があるくらいなのだ。
「ヘタレな主人公」そのものは、むしろ好きと言っても過言ではないだろう。
では何故朋也だと気にくわないというのか。それは朋也が、度を超したヘタレだからである。
私がヘタレな主人公が好きなのは、「ヘタレでもヘタレなりに一生懸命頑張っている」姿に好感を抱くからである。共感と言ってもいい。しかし残念ながら岡崎朋也という人物にはそれが感じられない、若しくは間違った努力をしている。そう思わざるを得ないのだ。
その傾向が如実に表れるのが、after後半、汐編と呼ばれる部分での朋也の行動である。ざっとそのあらすじを書いてみると。
朋也は渚と結婚し、渚はお腹に二人の娘、汐を宿した。だが元々体の弱かった渚は出産時に死亡。汐の養育を朋也に託す。だが朋也は悲しみに暮れるあまりその養育を放棄し、5年間汐と顔を合わせようとすらしなかった。渚の母親で朋也の代わりに汐を育てていた早苗は、そんな朋也の態度に業を煮やし、二人を朋也の故郷に旅行に行かせ、朋也の祖母に会わせることで問題の解決を図ろうとする。自分の父親が、自分同様早くに妻を亡くし、しかし16になるまで自分をしっかり育ててくれたことを知り、泣き崩れる朋也。朋也は汐を育て、これまで代わりに汐を育ててくれた早苗・秋生夫婦と一生家族でいることを誓う。
だがそんな朋也の思いも、汐が発病することで再び狂いだしてしまう。汐が渚と同じ症状だと聞かされた朋也は、これからはずっと汐の側にいると心に決める。そして汐を看病するために、早苗の反対を振り切って仕事を辞めてしまう。経済的な余裕は無くなり、貯金も僅かになっていったが、しかし義父秋生からの経済援助は断ってしまう。冬になり、汐の症状は悪化していった。ある日朋也は、汐が一緒に旅行に行きたいと言っていたことを思いだし、汐を外に連れ出してしまう。雪が降り出し、汐は歩けなくなってしまう。そして朋也の腕の中で、汐は幻想を見ながら息絶えていく・・・。
と、ここまで書く為にCLANNAD汐編を読み直していたのだが。ふと気づいたことがある。半強制的に見せられるものとはいえ、汐編はCLANNADの「バッドエンド」なのだ。そして、あとからプレイする際にこの汐編に入るためには、渚が死の淵を彷徨っている時に朋也が渚を「呼ばない」という選択肢を選ばなくてはならない。
これが一体何を意味するのか。
ここでCLANNADのテーマを思い返してみる。1に「街」であり、2に「家族」である。ここで言う街は無機質なコンクリートの固まりによる構造物の集合体のことではなく、そこに住む人達の共同体である、と解するべきであろう。つまり、街にしろ家族にしろ、「人と人との繋がり」というものが、CLANNADの究極テーマであると考えられる。
さて。汐編での朋也の行動は、このテーマに沿っているだろうか。冒頭で渚を呼ばない。自身の娘を5年も養育放棄。汐発病後、勝手に辞職。秋生からの資金援助も拒絶。まさに、「アンチCLANNAD」とすら言える行動である。そしてこの汐編はバッドエンドなのだ。
つまり結論を言えば。汐編の朋也は、反面教師なのである。「こんな行動を取ってはいけないよ」「こんな努力の仕方は間違ってるよ」という、作者(麻枝准)からのメッセージなのだ。
そういう意味では岡崎朋也という人物は、主人公でありながらこんな損な役割をさせられている、大変不幸な人物と言えるかもしれない。こんなことで嫌ったりするのは、酷なことなのかもしれない。だがそれでも、私はこう思わずにはいられないのだ。
「ああはなるまい」、と。
2005-04-12 03:33