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魔剣

第11話
 
 
 相沢祐一が目を覚ますとそこは、佐祐理の腕の中だった。 幸せ。 そんな単語が一瞬だけ祐一の脳裏に浮かんだが、それはすぐに恐怖心に取って代わられた。脳の目覚めとともに記憶は所為の放物線のごとく蘇り、体中に、今はもう無いはずの感覚までも呼び起こしていた。目の下の乾いた感覚は涙の痕であると、祐一は気づいた。喪失感。
 かすかに見える時計は6時過ぎを指していた。佐祐理はまだ眠っていた。今のうちに逃げよう、祐一はそう思った。朝から何かをされる可能性は低かったが、しかし祐一はその僅かの可能性をもおそれる心境にあった。
 祐一は自分の脇腹に添えられたままの佐祐理の左腕をそっと持ち上げた。佐祐理が少しだけ声を漏らし、祐一は硬直した。一秒、二秒。十五秒。佐祐理はまだ目覚めてはいない、そう判断した祐一は再び動き始めた。僅かに体をずらしながら、そっと佐祐理の腕を降ろしてゆく。痛み。朝のなまった体には少々きつい動きだった。作戦行動が完了したとき、祐一は呟いた。
「俺はNINJAだぜ・・・」
 突っ込むものは誰もいなかった。自分の荷物を持った祐一は、そっと部屋を出た。
 
 
 リビングでもう一眠りするか、早めに学校へ行って机に突っ伏して眠るか。階下に降りながら祐一は思案していた。快適性をとるなら当然リビングである。ソファは柔らかいし、北川に特価品という札を付けてたたき売りされる危険性もない。だが今この家には、もっと恐ろしい危険が潜んでいる。北川は後で殴れるが佐祐理は殴れない。祐一の中で結論が出た。
 
 秋子がすでに起きていた。誰にも気づかれないようこっそり出ようとしていた祐一を呼び止め、キッチンに招き入れた。
「朝ぐらい食べていった方がいいですよ。」
 祐一としては一刻も早く危険地帯から抜け出したかった。しかしよもや秋子のいる前で何か事に及ぶことはないだろう、それよりも秋子のいうことを聞いておいた方が得策だ。祐一はそう判断した。年上の女性には極力逆らってはいけない。生き延びる為に身につけてきた知恵。逆らえない故に起きる悲劇もある、祐一はそれに気づいていたが、しかしその訓を直ちに受け入れることが出来なかった。既存知識とのせめぎ合い、人の心の理不尽さ。
「今日は早いんですね」
 焼いた卵を出しながら、秋子が語りかけてきた。
「追われる身なもので。」
 祐一はそう答えた。下手な包み隠しなど無い、まごう事なき真実。秋子はその言葉を、額面通りに受け取った。真実が素直に伝わる間柄、家族ってすばらしい、麻枝准万歳。祐一は卵を口に運びながらそんなことを考えていた。
 階段から人が下りてくる音。祐一の全身に戦慄が走った。が、戸口から顔を覗かせたのは名雪だった。
「あらめずらしい。」
「うん、ちょっと・・・・・ね。」
 秋子の言葉に返答しようとした名雪は、祐一の姿を見かけて顔つきを険しくした。
「行ってきます。」
 名雪はあからさまに祐一を無視して、そのまま行ってしまった。祐一にはその原因が解っていた。解っていただけに、悲しかった。自分の所為じゃないのに。
 時刻は、6時45分を指していた。
「俺もそろそろ行ってきます」
「気をつけてね。」
 秋子の返答を背に、祐一は家から駆けだしていた。
 
 
 川澄舞の朝は早い。正確には、今日の川澄舞の朝は早い。台所に立った舞は、母親の視線を感じながら弁当を作っていた。
「佐祐理が昨日言ってたのっ、今日はお弁当作れないって、だから代わりに作っちゃう、らぶらぶ舞ちゃん愛情弁当♪」
 舞は歌いながら、作った一品をつまみ上げて味見をした。今ひとつだった。
「うーん、うーん、でもっ、愛があるから大丈夫♪ おっけー!」
 舞の脳内で妄想劇場が始まった。舞、この弁当味は今ひとつだな、でもいいんだよ、舞が一生懸命作ってくれたんだからな、それが最高の味付けだよ。舞はいつも俺の為に一生懸命だ、だから俺も舞を精一杯愛するよ、いやぁん祐一ってば人が見てるぅ!
 舞の心は幸せいっぱいだった。それを見る母の心は不安と猜疑心でいっぱいだった。
「いつもの舞じゃない・・・」
 
 弁当の包みを持った舞は、いつもの祐一との合流地点に全速力で駆けていた。佐祐理は朝も来れないと言ってたから、待ち合わせる必要はない。
「特急列車が通過しまーす!」
 特別急行列車はもはや特別でも何でもない、むしろ急行の方が特別な存在になってしまった。かつて祐一がそう嘆いていたことを、舞は思い起こしていた。じゃあ祐一は特急じゃなくて急行。そう言いたくて言えなかったことも。でも今なら言える、そんな気がする、舞は心の中で自分を力づけた。言わなくて正解だったという考えは、なぜか無かった。
 合流地点に着くと、既に祐一の姿が見えていた。もし祐一が気まぐれに早く来てしまうことがあったらと30分待ち覚悟で来ていたのだが、それは正解だった。舞は祐一から死角になる位置に身を潜め、祐一がやってくるのを待った。そして祐一がそこを通り過ぎようとしたとき、後ろから組み付いて羽交い締めにした。
「ま、舞っ?!」
「つーかまえたっ。さあ、どっから食べちゃおうかなー?」
「た、たべる・・・?!」
 その言葉が、祐一の精神的裂傷の口を再び開いた。背筋や腹に、前夜佐祐理に与えられた感覚が再び甦ってきた。祐一は身悶えて、舞の腕をふりほどこうとした。
「おやおや、どうしちゃったのかな?」
 いつもの祐一と違う、舞はそう感じた。この行動の意味するところは何だろう。羞恥心故? でも周りに人はいないし、普段の祐一ならむしろ積極的に恥ずかしいことをしてくるはずだ。相沢祐一とはそういう男だ。少なくとも舞にとっては。
 舞は、祐一の側頭部に、自分の耳を押し当てた。祐一の今の心の内を知りたい、それが目的であったが、しかしそれは全く意味のないことと気づいた。そんな事をしても、聞こえるのはせいぜい血の流れる音くらいのはずだから。それでも舞は、耳を押し当てるのをやめなかった。ついでに頬と頬とがふれあい、それが心地よかった。
 心が、静まる。
 祐一もまた、触れ合う舞の頬に安堵を感じていた。震える恐怖の波は鳴りを潜め、代わりに穏やかな理性の波が戻ってきていた。そう、これが本来の俺。理知的で繊細なクールポエマー相沢だ。そんなことを口走りそうになる程、いつもの自分を取り戻していた。
「ごめん舞、俺、どうかしてたよ」
「祐一はいつもどうかしてる。」
 舞の言葉は容赦なかった。今の舞だってどうかしてる、祐一はそう言いかけて、思い当たった。何で舞は、またこんなハイテンションになってるんだ? いつからだ。一昨日剣を見つけてからじゃないか?
「でもいいの、どうかしていても、祐一は私のことを精一杯愛してくれるから。きゃー言っちゃった、舞ちゃんはずかぴーっ」
「ああ、そうだな。」
 舞のせっかくの愛情発言も、他事を考えている祐一の心には達していなかった。舞の背には、あの不細工な剣が背負われていた。祐一はその剣に手を伸ばした。
 ぼかっ。
 祐一が手に取ろうとした剣は瞬速で舞の右手に握られ、そのまま祐一の頭に振り下ろされた。
「祐一、今の私の台詞聞いてなかったでしょ!」
「え?」
 祐一は、つい先刻の舞の発言を思い返していた。いくら記憶力がないとはいえ、僅か数十秒前に聞いたことを忘れる程ではない。記憶が飛ぶ程激しく殴られたわけでもない。舞の発言は一時記憶野から取り出され、意味解析課程にかけられた。判定。この発言は愛情53%、慈悲深さ11%、恥ずかしさ36%より構成されています。
「舞・・・」
 祐一は舞の頭の後ろにそっと手を回し、自分の胸元に引き寄せた。
「ごめんな舞、折角の舞の愛情と慈悲深さを、すぐに受け取ってやれなくて・・・」
 祐一の悪い癖が始まった。
「でもな、俺は決して、舞を愛してないわけではないんだ。その証拠に、今舞が心に持っている恥ずかしさ、その半分を俺が引き受ける。いやこの言い方は適切ではないな。なぜなら、俺の心は舞のものだからだ。同じように、舞の心も俺のものだ。だから半分はあり得ない。恥ずかしさも切なさも心強さも、すべて二人で一つだ。」
「祐一・・・でも、恥ずかしさはゼロにはならない。」
「そうだな。でもいいじゃないか、今この場所では、俺達は二人きりなのだから。恥ずかしさもむしろ、愛の糧になる。そうは思わないか?」
「祐一、それは違う。」
「どうしてだ?」
「だって・・・佐祐理が見てる。」
「え゛?!」
 祐一は勢いよく振り返って後ろを見た。電柱の陰に半身を隠した佐祐理の姿が確認できた。
「え、えっと・・・」
 佐祐理は、何か気まずそうな雰囲気を漂わせながら、電柱の影から出てきた。ビデオカメラを持って、あははーばれちゃいましたー、とかいいながら出てくる。そう予測していた祐一には、それは意外な反応だった。
 佐祐理は影から出たところで立ち止まっていた。何か言おうとしている、それは祐一と舞にも伝わっていた。夕べのことか、祐一はそう思った。ただ佐祐理は、なかなか言い出そうとはしなかった。祐一も、促すことはしなかった。
 心の膠着状態がもたらす沈黙。一人と一人であれば、その状態は永遠に時を消費し続ける。それを動かせるのは第3者しかいない。
「二人とも、何かあったの?」
 祐一の後ろから、舞が声を発した。その一言で、時は再び意義あるものを生みだし始める。祐一は舞の方に視線を向けて、佐祐理の返答を促す目的で敢えて曖昧な返答をした。
「ああ、ちょっとな」
「そんなっ! 一体何があったと言うんですかっ?!」
 祐一は急速に佐祐理に視線を戻した。なんですと、そう言いたくなるのをぐっと抑えた。佐祐理の目はまっすぐに祐一をとらえていた。
「祐一さん、起きても佐祐理に何も言わず部屋を出て行ってしまうし、佐祐理が降りたときにはもう家を出てしまっているし。もしかして避けられてるのかと不安になって追いかけてきてみたら・・・」
 そこまで言う間に、佐祐理の視線は祐一から離れてその近くの地面に移っていた。居たたまれない気持ち。否定してほしかった不安は現実だった。
「佐祐理が・・・」
 佐祐理は再び顔を上げた。
「佐祐理が何かしたんですかっ?」
 何かした。何かしたか、ですと? 祐一の心は驚愕の疑問符で埋め尽くされた。夕べあれだけのことをしておきながら、なぜそんな台詞が飛び出してくる。記憶が無いのか? まさかこの人、名雪以上の深刻な夢遊病なのでは。
「夕べ・・・夕べのこと、覚えていますか・・・?」
 祐一は覚えている。その記憶の恥ずかしさ故に、祐一は佐祐理を直視できなかった。だが佐祐理が覚えていないと言うのなら、それはそれでかまわない、そう思い始めていた。いっそうやむやにしたかった。それが互いの為だし、なにより、舞にこの事は知られたくない。
「夕べは・・・」
 佐祐理が口を開く。
「二人で楽しく遊んでいたじゃないですかっ」
 祐一の中で、言葉が繰り返し再生される。夕べは二人で楽しく遊んでいたじゃないですかっ。夕べは二人で楽しく遊んでいたじゃないですかっ。夕べは二人で楽しく遊んでいたじゃないですかっ。
 覚えていないより、遙かに性質が悪かった。祐一の膝は笑い出していた。そのまま崩れ落ちて、大地に両手をついてしまいたい気分だった。
「祐一、佐祐理と二人で遊んでたの?」
 舞にとっては寝耳に水の事実。別に怒ることではないが、しかし一言言っておいてほしかったのが本心。
「そうなのー。舞がお泊まりして遊んだって言うから、佐祐理もやってみたくなっちゃって」
 小学生ですかあなたは、祐一はそう叫びたかった。
「私、聞いてない。」
「ごめんね。祐一さんはちょっと驚かせたかったから。舞と祐一さんってツーカーだし、言うと祐一さんに知られちゃうかもしれないって思ったから。」
「なら許すっ。」
「許すなあ!」
 さすがに堪らず、祐一は叫んでいた。気力はもはや限界だった。膝の力が抜け、祐一はその場に崩れ落ちた。手のひらが痛い。
「祐一さん、どうしたんですかっ?! 貧血ですか?」
「きっとビタミン不足。でも大丈夫、今日は舞ちゃんが愛情たっぷりのお弁当作ってきたから。ホントはお昼用に作ってきたんだけど、祐一が食べるんだったら別に今でもかまわないからっ」
 そう言って舞は弁当箱のふたを開け、中身を祐一の口に詰め込もうとした。
「いや違う、そうじゃないってば、ビタミンは足りてるから、だから、いらないってば、いや、いらないってのはそういう意味じゃなくて、舞の作ったものならもちろん欲しいんだが、いや、だから今はいいんだってムグ、ムガゴ、ムゲゴゲゴー!」
 周りは既に、他の通学生が歩き始めていた。ああまたやってるよ、そんな声に祐一は、好きでやってるんじゃない貴様にこの俺の不幸が分かるか、と心の中で叫び返していた。
 
 
魔剣第11話.終了
第12話に続く。
  <2004年1月2日執筆>
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