拝啓あゆ先輩

 
 その人と同じクラスになったのは、卒業間際の最後の一年。三年生の時だった。
 噂どうり、確かにお姉さんだった。年上に見えた。一つぐらい。でも本当は、あの人はもう二十歳行っているらしいから、実年齢より少し若いように見えたということか。小柄で、制服を着て、元気に走り回っている姿を見ると、二十歳どころか年上であることすら忘れさせてくれた。でも、そんな中に時折見せる優しさは、やはり彼女がお姉さんなんだなという印象を僕の心に植え付けた。いつしか僕は、意識的に彼女を目で追うようになっていた。
 
あゆ「どうしたのかな、加藤泰輔君?」
 
泰輔「え? い、いやなんでも」
 
あゆ「なんでもないのに人のことジロジロ見るのは、失礼だと思うよ?」
 
泰輔「は、はい。・・・ごめんなさい・・・・」
 
あゆ「うん、素直でよろしいっ。その素直さに免じて、使いっ走り一回で許してあげよう。」
 
泰輔「・・・たい焼きですか?」
 
あゆ「うんっ、5個。中身は粒でもこしあんでもいいけど、カレーは勘弁してね」
 
泰輔「はい、行って来ます!」
 
 僕はいつの間にか、彼女の弟分のような存在になっていた。パシリなどという言い方もある。でも、僕はそれで満足だった。決して卑屈になっているわけではない。癪な思いだってある。ただ、何も出来ずに遠くから見ているだけよりは、こっちの方がずっとましということだ。
 
あゆ「ありがとっ。じゃ、これ。お裾分けね。」
 
 買ってきたたい焼きの中から一個をとりだし、僕に手渡す。
 
泰輔「あ、ありがとうございます。」
 
あゆ「ん、んぐんぐ」
 
もう食べている。
 
泰輔「でも。お裾分けって、裾を分けるって意味ですよね?丸ごと一個渡したら、お裾分けとはいわないんじゃ」
 
あゆ「うぐ? うん、それは確かに一理あるね。」
 
泰輔「お裾分けというからには、端っこの方をちぎって渡さないといけないのでは」
 
あゆ「うーん。でも端っこの方にはあんこが入ってないんだよ。あんこも入っていないたい焼きの切れ端を渡しても、嫌がらせになるだけじゃないかな?」
 
泰輔「わかりました。お裾分けというのは、元々笑顔の裏に隠された嫌がらせ行為を指す、暗語だったんですよ!」
 
あゆ「なるほどっ。キミはなかなか賢いねえ」
 
 こんな会話をしていると、なんだか二人ともアホみたいに聞こえてくる。まあ実際僕はアホだけど。でも、あゆ先輩は違う。意識不明で入院していて、小5以来学校に通えていなかったくて、3年前にやっと意識を回復した。それなのに、たった3年で中検・大検をほぼクリアし、残り1科目という状態でこの学校に編入学してきた。何でたった一科目のために、編入学を。そう思って、訊いたことがある。でも、彼女は何も答えなかった。ただ、一言こう言っただけで。
 
あゆ「時に追いつくことは出来ても、同じ時は二度と過ごせない・・・」
 
 そのときのあゆ先輩の顔は、僕の知っている元気な同級生のお姉さんの顔ではなかった。きっと、これ以上訊くべきではない。それくらいのことは僕にもわかったから、それ以上は何も言わなかった。
 
あゆ「ふーっ、おいしかったよお」
 
女生徒1「あーっ、あゆ先輩また早弁してるーっ」
 
あゆ「早弁じゃないよ、おやつだよっ」
 
女生徒2「どっちでもいいから、あたしらにも分けてー」
 
あゆ「ごめんっ、全部食べちゃった」
 
女生徒3「ずるいずるいー、一人で食べてー」
 
女生徒4「しかも食べても太らないしー」
 
あゆ「え、それは・・・」
 
女生徒「ずるいずるいー」
 
あゆ「わ、わー、わかった、わかった今度は黙って食べたりしないから、うぐぅー!」
 
 あゆ先輩は、女生徒らのおもちゃにされていた。こんな時だけは、さすがに先輩という気はしなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
泰輔「やべー、遅刻遅刻!」
 
 少し寝坊した朝。慌てて駆けていく先に校門。と、その前のフェンスの陰でうごめく人の姿があった。
 
泰輔「あ、あゆ先輩・・?」
 
あゆ「あれ、泰輔君。なんだキミも遅刻? ちょうどいいや、ここ近道なんだよっ、一緒に行こっ」
 
泰輔「え、で、でもここ・・・」
 
 そう言ってフェンスの下、あゆ先輩が潜り込もうとしているところを見下ろすと、あまり目立たない穴が開けてあった。
 
泰輔「こ、これって・・・」
 
あゆ「近道。早く早くっ」
 
 そう言ってあゆ先輩はフェンスの向こうに行ってしまった。僕は、言われるままにあゆ先輩についていった。
 
あゆ「これで間に合うねっ。ここから教室はすぐだから。」
 
泰輔「う、うん・・・」
 
 服に付いた草の葉を払いながら、彼女はにこにこと微笑みかけてきた。
 僕は少し困り、そして笑い返そうとした。そのとき、校門の方から歩いてくる教師の姿が目に入った。
 
教師「あっ、お前ら。どこから入った!」
 
あゆ「あ、やばっ」
 
 あゆ先輩は教師の姿に気づくと、さっと僕の手を取って駆けだした。
 
教師「こらーっ、お前、月宮だろ! 待て! どうせそこの穴から入ってきたんだろ、穴開けたのもお前なんだろ、どうしてそういうことをするんだ!」
 
あゆ「こっちから来た方が早いんだよー、遅刻しないで済むんだよー、健全な青少年を育てるためには仕方のないことなんだよー!」
 
教師「フェンスに穴開けるやつのどこが健全な青少年だ、ちくしょー待ちやがれー!」
 
泰輔「あ、あゆ先輩・・・」
 
あゆ「大丈夫。逃げ切れるよ。ボク、逃げ足は早いから。それと、あゆちゃん!」
 
泰輔「僕は早くないんですけど!」
 
あゆ「え、そうなんだ。」
 
 あゆ先輩は少しだけ振り返り、そしてつかんでいた僕の腕をぐいと引っ張って、自分の前に押し出した。
 
あゆ「押してってあげるからっ。教室まで入れば、こっちのものだよっ」
 
泰輔「こ、こっちのものって・・」
 
あゆ「教室の中は治外法権だからねっ」
 
 そんな話は聞いたことがない。だが、実際教師は、そこまで追いかけてくることはしなかった。
 
あゆ「やったね!」
 
 少し汗をかいてVサインを送る彼女の顔は、とても美しく感じた。
 
 その後、あゆ先輩は職員室に呼び出しを食らった。僕も一緒についていって、二人で怒られた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 季節が変わって、席替えがあった。この年になって席替えで大はしゃぎするなんて、自分はなんて子供なんだろう。そう恥ずかしく思いながらも大騒ぎしていた。その騒ぎの中には、彼女もいた。楽しそうなその顔を見ると、子供だとかそんなことはどうでもいいと思えた。
 そして僕は、あゆ先輩の隣になった。
 
あゆ「よろしくっ」
 
泰輔「よ、よろしくです、あゆ先輩」
 
あゆ「ち、ち、ち。何度も言ってるでしょ。ボクは同級生なんだから、先輩じゃないよ。」
 
 彼女、あゆ先輩は先輩と呼ばれることをあまり好まなかった。僕らにしてみれば、その方がごく自然に呼べるからそうしているのだが。でも、特に僕がそう呼ぶと、彼女は決まって嗜めて訂正させた。
 
あゆ「はい、言い直して。」
 
泰輔「あ、あゆちゃん・・・」
 
あゆ「うん、よろしい。」
 
 そういう呼び方をするときは、とても恥ずかしくなる。恥ずかしくて、だいたいその日は何も話せなくなってしまっていた。
 
 
 
 
 
 
 
 それは、物理の時間だった。
 
教師「あー、では次の問題を・・・加藤。」
 
泰輔「(げ)」
 
教師「さあやってくれ。できなきゃ死刑」
 
泰輔「ど、どうしよう、・・・ここ、わからないからって空欄にしてたし・・・」
 
あゆ「泰輔君、泰輔君」
 
 隣のあゆ先輩が、ノートを示しながら小声で話しかけてきた。
 
泰輔「な、なんですか
 
あゆここは15[N]。わからないんだったら、後で説明するから。
 
泰輔「は、はい。えっと、15ニュートン。」
 
教師「はずした人は無期懲役。」
 
泰輔「え?」
 
あゆ「え・・・あ、やば!計算間違えてる!」
 
教師「さあて、どんな懲役を科そうかな・・・」
 
泰輔「え、え、そんな・・・」
 
 うろたえる僕。無表情なのかにやついているのかわからない顔で近づいてくる教師。
がたっ、あゆ先輩が立ち上がった。
 
あゆ「ご、ごめんなさい!その答え、ボクが教えたんですっ!」
 
泰輔「え・・・・!」
 
教師「はあ?」
 
あゆ「泰輔君が間違えたのはボクの所為なんです、だから、だから責めるなら、ボクを責めてっ!」
 
教師「ぼ、・・・・ボクを、責めて・・・・・!」
 
生徒1「あ、神領なんか硬直してるぞ」
 
生徒2「変な妄想でもしてるんじゃねえのか?」
 
生徒3「まだ若いしねえ・・・」
 
教師「はっ・・・! い、いや。もういい、二人とも、座っていいから。」
 
泰輔「は、はい・・・」
 
 あゆ先輩が座るのに合わせて、僕も席に着いた。座り際あゆ先輩が「ゴメン」の仕草をしているのが見えた。その仕草がなんだかとてもかわいくて、僕は笑みがこぼれそうになった。そのとき神領がまた振り向かなければ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 それは、ある休日のことだった。街で、彼女をみっけたのは。彼女は最初一人だった。だけど、声をかけようとした僕がどう言おうかかける言葉を選んでいる間に、増えてしまった。二人に。増えたのは、男だった。彼女の実年例と同じくらいの。
 
泰輔「だ、誰だよ・・・」
 
 歩いていく二人。僕は必死で後を付けた。みつからないように。別に、見つかってもよかったはずだ。むしろ、追いついてさっさと二人の関係を訊いた方が早い気すらした。でも、それができなかった。そのとき返ってくる言葉が怖くて。ずっと一人で思い描いてきた夢が壊されるのが怖くて。
 そのまま、ついていった。辛うじて声は聞こえない。ただ、楽しそうに語らっている、そう見えた。だが、男の手があゆ先輩の頭に直撃したとき、僕はその考えを捨てた。あの男は、明らかにあゆ先輩を殴っていた。
 
泰輔「な、何しやがるあの野郎・・・!」
 
 男は、何かを取り上げたらしい。あゆ先輩は必死に男にすがっている。あいつは、あの男はあゆ先輩をいじめて楽しんでいるんだ。僕の目にはそうとしか映らなかった。最低の男。いっそ殴ってやりたい、たとえあいつがあゆ先輩の兄だったとしても。そう思って駆け出したとき、その声は聞こえた。
 
あゆ「返してよー、祐一君。ボク達、恋人同士じゃない」
 
 その言葉だけで十分だった、僕の足を止めるのには。もう、足はあっちには向かわない。よくわからない悔しさが、必死に自分をあそこから遠ざけようとしていた。
 
 
 
 
 それでも僕は、納得したわけじゃなかった。そもそも、あいつが彼女をいじめていたことには変わりない。あいつは、あゆ先輩にふさわしくない。その思いは、消えなかった。
 
 
 
 だから。校門の前に立つあいつをみたとき、僕は迷わず突進していった。それまで人を殴ったことはなかったけど、そのときはそんなことも頭には無かった。
 
祐一「な・・・・!」
 
 殴られたあいつは、呆然としていた。その胸ぐらをつかみ、僕は訳のわからないまま叫んでいた。
 
泰輔「お前は!お前は、お前は、・・・!あゆ先輩に近づくなっ!」
 
祐一「あ、あゆ・・?」
 
 困惑の色しかなかった男の目に、ようやく納得したという心の内が見えた。胸ぐらをつかんだままの僕の手はそのままに、背筋を伸ばすように姿勢を正した。
 
祐一「君は・・・俺が、あゆの恋人としてふさわしくない、だから分かれろ、近づくなと。そう言いたいわけか。」
 
泰輔「そ、そうだっ。お前みたいな最低の男・・・」
 
祐一「確かにな。俺は記憶力がないし、金もない。手が早いし、顔なんかのっぺらぼーだ。でもな。」
 
 あいつは、一呼吸置いた。
 
祐一「俺は、他の誰よりもあゆのことを気遣っている。これは絶対に自信がある。少なくとも、あゆがどうしたらいいかわからなくなるほど困るようなことはしない。」
 
 そう言ってあいつは、僕の後ろを見るように促した。後ろには、困っておどおどしている、あゆ先輩の姿があった。その原因が僕だと気づくのには、少し時間がかかった。彼女が声を発してくれたのは、僕があいつの胸ぐらから手を離してからだった。
 
あゆ「泰輔君・・・」
 
泰輔「・・・・。」
 
 言葉が出なかった。お互い、それ以上。
 
祐一「二人で、話してきたらどうだ?」
 
 あいつが、後ろから口を挟んできた。
 
祐一「俺の方は、どうせ後でもいいだろ。な、あゆ。」
 
あゆ「う、うん。」
 
 あゆ先輩は、そのまま歩いていった。僕も後を追った。少しだけ振り返ると、あいつがやれやれといった表情で壁にもたれかかっていた。
 
 
 
 
あゆ「ごめんね・・・」
 
 最初に彼女が発した言葉は、それだった。
 
あゆ「本当はボク、気づいてたんだ・・・。キミがボクをどう思ってるか、ってね」
 
泰輔「・・・・。」
 
 僕は何も言わなかった。
 
あゆ「前に、話したよね・・・ボクには、親も兄弟もいないって。今でこそ親代わりの人はいるけど、代わりであって親になってくれたわけじゃないし、それに兄弟がいないことには変わりない・・・。それでね・・・つい、キミのことを弟だと思いたくなっちゃった。」
 
泰輔「・・・・。」
 
あゆ「キミの好意に適当に応えておけば離れずにいてくれると思ったし、そうすればこの兄弟ごっこも続けられると思ってた・・・。」
 
泰輔「・・・。」
 
あゆ「ボクはね・・・キミより確かに三つも年上だけど。でも、ホントは全然お姉さんなんかじゃないんだよ。考えの甘い、まんま子供なんだよ。・・・その子供な考えで動いて、・・・二人も、傷つけちゃった・・・」
 
 泣き出しそうになるあゆ先輩。いや、もう泣いているのかもしれない。僕は、その泣き顔は見たくないと思った。
 
泰輔「・・・わかりました。」
 
あゆ「・・え?」
 
泰輔「納得はしてないけど。でも、納得しなきゃいけないって事はわかりました。
 
あゆ「・・・。」
 
泰輔「だから、・・・もう、行ってください。あの、祐一とかいうやつのところに。」
 
あゆ「で、でも・・・」
 
泰輔「今日は、約束があったんでしょう。恋人との約束は守らないと駄目ですよ・・邪魔されたって・・・」
 
 そう言って僕は駆けだした。振り返らずに、そのまま。
 
 
 
 その日。僕は 一人で泣いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 それから卒業まで、あっという間だった。時が短くなったように思われた。時期的に忙しくなるところではあった。でもそれ以上に、僕が時を早く進めたいと願っていたことがあった。昔を忘れさせるように、とにかく忙しく動き回った。あゆ先輩とも、あまり話す機会はなくなった、否、話さなかったと言うべきだろうか。少なくとも、意図的に近づくことはなくなっていた。
 そして卒業式の日。僕は久しぶりに、あゆ先輩に話しかけた。ただ一言。
 
泰輔「ありがとう、ございました」
 
あゆ「泰輔君・・・」
 
 あゆ先輩は、少し言葉を詰まらせた。そして
 
あゆ「ボクの方こそ、ありがとう・・・。よかったよ、わざわざ、一年この学校に来て・・・ホントに、よかったよ・・・」
 
 あゆ先輩の目は、涙目になっていた。僕の目も、涙が出そうだった。涙が出る前に、僕はそっと片手をあゆ先輩に差し出した。あゆ先輩も手を出して、僕の手をぎゅっと握り返した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 7年後。僕は一通の手紙を書いた。あのころの自分を、少し恥ずかしく思い出しながら。新しく手に入れた今を無くさないために。
 
「拝啓、あゆ先輩。お元気ですか。僕も、ようやくあなたのことを、思い出にできる日が来ました    
 
 
 
 
 
 
 
 
(2002年1月6日執筆)
 
 
 
 
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