美坂レポート
 
 
 
 この報告書は、「倉田事件」の首謀者安井荘平の経歴並びに犯行動機について記すものである。
 当文書は、美坂香里が個人で収集した資料・情報に基づいて作成されている。資料の中には捜査当局によるものも一部含まれるが、この文書の作成自体に、当局はいっさい関わっていない。また、裁判においてこの報告書が証拠として提出される可能性も、現時点ではないといって差し支えないだろう。
 
 「倉田事件」とは、倉田佐祐理並びに彼女の家族・友人に起きた、殺人教唆・業務上過失致死・有印私文書改竄・名誉毀損・脅迫・傷害・暴行・強姦未遂等の、一連の事件の総称である。記述者美坂香里も、この事件の被害者であり同時に加害者でもあることを、あらかじめ述べておく。
 
事件の概要は、以下の通りである。
 
 1990年6月。先天性言語障害のため入院していた倉田一弥(5)に対し、許容量を遙かに超える抗鬱剤が投与し続けられ、約一ヶ月後死亡した。処方当初を除いて投与の指示は口頭で行われ、明文での記録は残っていない。処方当初に記入されたカルテも改竄されていた。これは当時導入されたばかりの総合医療情報システムに電子カルテとして残されており、システム内部に修正履歴が残っていたため、改竄したという事実だけは突き止めることができた。だが10年も前のことであり、関係者の記憶も曖昧なため、明確な投与量を示す証拠は結局残っていないことになる。主治医で抗鬱剤の処方を指示し、カルテを改竄した矢島政和(47)は、殺意を否認しており、検察は現在殺人・業務上過失致死の双方から立件の可能性を探っている。
 
 3年後、1993年。衆議院議員倉田一郎(当時45)に対し、中堅ソフトハウス尾山データセンターからの献金が行われた。北越県都南の神森町に計画中の北越インターパークへの進出の便宜を図ってもらうのが目的だったと見られている。北越インターパークは、次世代主要産業と目されていたコンピュータ産業全般の育成をはかるため、通産・郵政・運輸・文部の4省合同プロジェクトとして整備並びに入居企業の募集が始まっていた。入居企業には国並びに件からかなり多額の助成金が出ることになっており、また企業の資本国籍も特に問わないとされたため、外資系も含めて当初は30社あまりが進出を表明していた。
 献金はその後、毎年行われた。が95年頃になって、倉田議員は寄付金受け取りの辞退を決め、当時秘書であった安井荘平にその旨指示している。高まっていた政治改革の声を意識したものと見られる。自治省への報告書でも、1996年10月以降の献金はなかったことになっている。
だが実際には、安井の独断で寄付は受け取られ、支持者との会合費等に使われていた。
 
この後、安井荘平は自ら議員秘書を辞職している。
 
 2000年5月。この事実を、東京の夕刊紙が報じた。記事掲載は瞬く間に全国紙にも広がり、野党に身をおいていた倉田議員は窮地に立たされる。一方、倉田議員の長女倉田佐祐理(19)が通う大学で、自治会が汚職事件に対する抗議活動を展開。その中で倉田佐祐理に対する謝罪要求が出る。実際には自治会の行動は安井によって指示されたものであり、彼らの行動は計画的にエスカレートしていった。その中で、私美坂香里に対する脅迫が行われ、私がそれに屈して彼らの仲間になったことを申し添えておこう。
 その後、倉田佐祐理の親友二名に関する虚偽の通報が行われるなどのことがあるも、これは誤認逮捕ということで片が付く。だが、倉田佐祐理に、彼女の弟の死について、彼女自身に責があるかのような中傷がなされ、佐祐理は倒れてしまった。彼女の弟に関する情報は、私が彼らに流したものである。この後何があったのか、倉田佐祐理は一時的に回復を見せる。だがこの一件をきっかけとして、倉田議員は議員辞職を決断した。
 
 6月の選挙で、元倉田議員秘書安井荘平は、倉田の対立政党から立候補する。当選確実といわれたが、このときインターネットを中心にした批判運動が展開され、結局落選する。このとき、ネットに批判の元をばらまいたのは、やはり私美坂である。
 
 8月。友人相沢祐一・水瀬名雪両名のアパートに同居していた倉田佐祐理は、安井荘平率いる3人組に襲撃される。このとき部屋に相沢はおらず、水瀬、倉田の両名だけがいた。水瀬名雪は軽い精神的ショック以外の外傷は特になかったが、倉田佐祐理は安井から暴行を受け、再び重度の精神錯乱状態に陥る。この後、相沢ともう一人の友人川澄舞が帰宅し、川澄によって3人は取り押さえられ、警察に引き渡された。
 
以上が、この事件の概要である。
次に、安井荘平の生い立ちについて語る。
 
 
 安井荘平(36)、1964年北越県尾山市生まれ。三つ上の姉がおり、出生当時父は繁華街で文具店を営んでいた。
 安井の父安井源八郎は倉田一郎後援会に入っており、中堅幹部として地域のまとめ役を担っていた。
 荘平が中学生の頃、繁華街周辺道路の拡幅計画があり、町の区画整理事業が進められていた。だが、区画整理事業には土地所有者に一部土地の無償提供が義務づけられており、町内会内部では反対の声が日増しに強まっていた。安井家も、反対側に傾いていた。
 だが倉田議員は、事業の円滑な進行と、反対運動への革新勢力の進入を阻止するため、安井源八郎に町内会を説得するよう依頼した。源八郎は悩んだ末、計画の受諾を決意。町内への説得を始める。だが、源八郎の議員への影響力を反対運動の柱にしたいと考えていた住民たちは、これを「裏切り」ととらえ、猛反発。対立は逆に激化し、安井一家への風当たりは日増しに強くなっていった。
 
 源八郎は、子供へのいじめも考慮し、この地域からの転出を決定。自らが出ていくことで交渉のテーブルにつくよう反対派を説得し、自身は、全土地を手放して保証金が得られるよう、倉田議員を通じて手配。尾山市郊外に、新しく居を構えた。
 だが、元が自営業でしかも文具屋である安井家の経営は、決して楽ではなかった。転居したことで学校指定が取り消され、移った先の学校指定も簡単には得られなかった。なにより、新しく入ってきたよそ者の店に寄りつこうという奇特者は、田舎ではなかなかいなかった。
 
 安井家は文具店を閉め、源八郎が20Km先の工場で働くことになった。だが、慣れない仕事で心労がたまり、体力にも衰えが出るようになった。折からの円高不況で工場が操業縮小することになり、病人状態の源八郎は整理対象となった。
 そのころ、荘平の姉の知加子が、高校を卒業する歳になっていた。高卒女子の求人数は少なく、彼女は短大進学を希望していた。だが当時の安井家には、短大にやるだけの金もなく、知加子は一年間働いて資金をためた後、短大に進学することに決めた。働く先は、風俗だった。他に、高給で、しかも女子を雇うところなど、無かった。
 荘平は、姉がそのようなところで働くのをいやがっていた。世間への見栄というよりも、彼の姉に対する思慕が根底にあったためのようだった。知加子はそんな荘平を、明るく振る舞って慰めた。が、彼女自身が本当に自分を納得させられていたかは、知る由もない。
 ようやく一年が経とうとする頃、安井知加子は死んだ。風俗店に関わっていた暴力団、そこの組員に知加子が目を付けられたのが原因だった。組員に交際を迫られ、知加子が頑なに拒絶し続けたため、結局なぶり殺しにあった、この事件の公判記録ではそうなっている。
 荘平は知加子がヤクザに絡まれているという事実を、彼女が死ぬ以前に聞かされており、父親に倉田議員に掛け合ってでも対処するよう訴えている。倉田議員側の関係者にこの話を聞いていた者はいないため、源八郎が倉田一郎に対応を依頼した事実はないようだ。だが荘平は後の供述で、倉田一郎がこの事実を知らなかったはずはないと主張している。
 荘平が大学に進学する際に、倉田一郎からの援助があり、また大学卒業後彼の秘書として雇いいれられたこと。これは、倉田一郎からの補償と取ることもできる。姉の死によって、安井荘平は倉田一郎への怨恨を募らせることになるが、彼からの援助は何もいわず受け取り、また秘書としての仕事もそつなくこなしている。これは、彼が倉田一郎を許していたという事ではなく、むしろこの頃から復讐の計画があったためと思われる。倉田一郎は、荘平の深謀に全く気づかず、彼にかなりの信頼を寄せて、政治活動のみならず家の内部のことまでも任せるようになっていた。
 
 安井荘平の復讐の手始めは、倉田一弥殺害であった。倉田一弥が言語障害を持っていたのは、これは全くの偶然であったが、一弥が入院したのは、荘平の手配によるものであった。ここで荘平は、主治医として小児科の医師でなく、精神科の矢島政和を指名している。
 矢島政和は当時、医療システム部長を兼任していた。彼が勤務する市立病院には、UFR社の総合医療システムが導入されたばかりであった。当時医師の中にコンピュータが解るものは少なく、システムを医師の立場で運用管理できるのは、矢島だけであった。矢島は、このシステムを導入する際の選考にも関わっており、その際、システム面で優れていたNBS社ではなく、UFR社を強力に推している。あくまで推測であるが、矢島政和はUFR社から賄賂か、それに類する何らかの便宜供与を受けていたものと思われる。
 安井荘平が、この事を知っていたかどうかは確証がない。ただ、矢島は自分が頼み込むとあっさりと倉田一弥殺害を引き受けた、彼はそうとだけ供述している。
 
 倉田一弥の死後も、安井荘平は倉田一郎の秘書を務めている。倉田一弥の死が荘平の謀略によるものであることを倉田一郎は知っておらず、政務に多忙を極める中、逆に荘平への依存度を強めていた。
 前述した尾山データセンターからの献金の一件も、安井荘平に一任されていた。倉田一郎が献金受け取り中止を指示をしたにも関わらず、献金が続いていたのは、その一例である。
 
 このころ、一部の県議やその秘書の間で、県立大学への干渉工作が検討されていた。
 北越県立大学は、旧県立三短大を母体としており、学生自治会組織は旧短大のそれを引き継いで、三つに分かれていた。三つの自治会はそれぞれ異なるセクトに属しており、暴力沙汰こそ無かったが、何かにつけて紛争や相互非難を繰り返していた。一般学生にはこの雰囲気にうんざりする傾向が強まっていて、新しく全学の自治会を作ろうという動きがあった。県政界の一部は、ここにつけ込もうと画策していた。
 安井荘平も、このグループに加わっていた。県選出の国会議員は、よけいなもめ事をおそれてこの動きに関わろうとはせず、倉田一郎も例外ではなかった。が、荘平は倉田には無断で会合参加や実際の工作を行っていた。荘平は設立運動学生への働きかけを積極的に行い、グループの影響を強めるとともに、自らの人脈も広げていった。
 結局、福祉学部を除く三学部の統合自治会が設立された。執行部は会長を除いて、荘平の息のかかった人物が占め、その会長も一年後には執行部を追われることとなった。事実上、安井荘平が県大を手に入れたも同然だったと言える。
 
 1993年、白民党が分裂。新たに三つの保守政党が結成される。そして約一年後、反白民党勢力が結集して、改革党が結成される。倉田一郎も改革党に加わり、白民党県連は二分裂。北越県政は改革党の手に落ちた。
 だがその後、白民党は議会工作により国政を奪還する。国政と県政のねじれが生じた北越県では、白民党と改革党の熾烈な戦いが始まった。
 その渦中の中、安井荘平は自ら秘書を辞任する。直接の原因は、養育を任されていた倉田佐祐理が自殺未遂を計ったためという事になっている。一方で彼をよく知る人物は、白民党県連が彼に選挙出馬への誘いをかけたとも言っている。北越改革党の中心人物である倉田一郎に揺さぶりをかけ、同時に1区で勝てる候補者を探していたという。だが、直後の総選挙で安井荘平は出馬を見送っている。この辺りの彼の真意は不明であるが、議員という公職について、身動きがとりにくくなる事を恐れたとも推察できる。
 
 その後の約四年間余りの彼の足取りは、よくわかっていない。かつての秘書仲間や県大自治会の関係者とは頻繁に連絡を取っていたようである。出身地の神森町の寺院に身を寄せていたという話もある。
 
 そして2000年になって、安井荘平は、匿名で倉田一郎の献金疑惑をマスコミに流した。同時に、この疑惑をネタに倉田佐祐理を攻撃するよう、県大自治会に指示を出している。その後総選挙に落選した後、今度は直接倉田佐祐理を襲撃した。
 何故倉田一郎を直接攻撃するのではなく娘の佐祐理を攻撃したのか、この理由について彼は、「懲罰」としか語っていないという。
 
 
以上が、安井荘平に視点を置いたこの事件の経緯である。
 
 この事件を総括するのは難しい。安井荘平他五名はいまだに公判中であり、事件の全容が未確定という事もある。が、それ以上に、この事件が偶然性を強く含んでいるという事である。過去に「もし」を唱えることは無意味ではあるが、もし安井荘平に姉がいなかったら、安井知加子が殺されていなかったら、安井荘平が倉田一郎の秘書になっていなければ、倉田一弥が入院していなければ、倉田佐祐理が県大に入らなければ、倉田佐祐理と倉田一弥が姉弟でなければ。このような結末はあり得なかったろう。誰もこれを予想し得なかった、今はそうとしか言うことができない。
 
 
最後に。
 冒頭で述べたように、この報告書は美坂香里が個人で収集した情報に基づいている。その中には、捜査当局の内部資料や機密扱いの電子・磁気記録情報が含まれている。これらの収集手段は明らかに非合法であり、これについて私個人が責めを負うべきであることは、弁解の余地はない。が、具体的な収集方法についてここに記すことはできない。
 また、情報源が不明な資料が一つだけある。倉田家での安井荘平の行動や倉田一弥の入院時の記録などであり、倉田一弥個人でしか知り得ないようなものが含まれている。何故このようなものが存在するのかは不明である。が、この資料が私の事件解明の大きな手がかりになったのは事実である。名も知らぬ、この情報の記録者に、ここで感謝を述べたい。
 
 
 
 
 
2000年12月31日

美坂香里
                                       
                                       
                                       
                                       
                                        」












祐一「香里、何やってたんだ?」
香里「別に。大したことじゃないわ。」
祐一「・・・そうか?」
香里「・・・大したことじゃないってのはウソね。でも、気にするほどのことでもないわ。」
祐一「そうか。まあいいや。佐祐理さんたち、待ってるぜ。」
香里「そうね。すっかり待たせちゃったわ、ごめんなさい。」
祐一「いや、いいんだけどな。・・ほんとに、なにやってたんだ?」
香里「・・・・秘密。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(執筆:2000年8月27日)