医者という職業は大変だ。「人の命を預かる」などとよく言うが、本気で命を預けてくれる人などほとんどいない。ただの季節風邪程度なら、命を預けられなくとも治療はできる。でも、それが心臓の病だったり、骨髄を傷つけるほどの大怪我だったりしたら・・・
聖「そんなものは大したことはない。いや、大したことがないといっては、また顰蹙を買ってしまうが。だが、治療法も確立されているし、知識を持った医者もたくさんいる。十分な意識と腕を持った医者、それに患者の信頼があれば、99%治すことができるのだ。」
叔母はそう言って胸を張った。研修医時代。夜勤の当番医をしていたとき、担ぎ込まれた14歳の少女がいた。塾の帰りに、車にひかれて。それを叔母は、的確な指示と処置で救ったのだそうだ。一分一秒を争う、ただでさえ難しいといわれる救急救命。しかも、相手が子供の場合は生存率は4割を切るとまでいわれるのだそうだ。それを見事成し遂げた、しかも医大を出て1年あまりの研修医が。
この一件以来、叔母は「腕の立つ医者」として高い評価を受けるようになったのだそうだ。
聖「だが。」
その叔母にも、治せない病気はあるらしい。
奈津観「カイユウの病気って、そんなに難しいものなんだ・・・」
叔母から今し方聞かされたこと。それは叔母の昔の自慢話などではなく、わたしの級友・大町海雄についてのことだった。
聖「正しい医者は、患者の秘密をべらべらと喋ったりするものではないのだがな。」
叔母はそう苦笑しながら、カイユウのことについて語ってくれたのだった。
大町海雄。12年前、漁師の家に生まれた。父親は豪快な人間で、「こいつは必ず、男の中の男、海を馳せる男に育ててみせる。」と語り、名前を海雄と名付けた。
聖「だが、その夢は叶わなかった。」
海雄は、あまり人と接しようとしない子だった。海雄父はそんな彼を案じ、機会があれば船に乗せ、漁を見せ、漁師仲間を見せ、海を見せた。だがある日、海雄は海に落ちてしまう。なぜ落ちたのかわからない。海雄はなにも語らないからだ。ただ言えるのは、仲間の漁師がすぐに気づいて、彼を救いあげたことだけだ。
聖「両親が言うには・・・この時以来、彼はますます人と接することを避けるようになった、らしい。それだけではなく、何かこう、存在感が希薄になった、とお二人は言っているのだが・・」
存在感。
聖「海に落ちたくらいでそうなるとは思えない、元々そういう要素があって、たまたま海に落ちたのがきっかけで、それが顕著に出るようになってしまっただけだと思うのだが。」
奈津観「うん。」
聖「だが、父親はそれで納得できるものではないらしい・・海に落ちたのは事実だし、その海に落ちたのは自分の不注意であったと、悔いている。」
その気持ちは、よくわからない。わたしがまだ、人の親ではない子供なせいかもしれない。
聖「初めは、私のところに診せに来た。私で手に負えないと知ると、町の病院へ連れて行った。大阪の国立病院まで行ったらしい。だが・・・」
奈津観「治せなかった。」
聖「あまり相手にされなかったということもあったらしいがな。なにしろ、すぐ死に直結するものではない・・・端から見れば、そう見えるものだから。」
端から見れば・・?
奈津観「本当は、違うの?」
聖「解らない。」
わからない。わからないということは、死んでしまう可能性もあるということ?
「カイユウ、死んじゃうの?」そう叔母に訊こうとして、思いとどまった。叔母は今、わからないと言ったのだ。訊いても同じ答えが返ってくるだけ。だってわからないのだから。
代わりに私は黙っていた。
風が吹き抜ける。少し心地よく、少し冷たい風。
そういえば外にいたんだ、風を感じながら私は漠然と風景を眺めていた。
聖「昔 」
叔母が再び語り出した。
聖「似たような子がこの町にいた。まだ奈津実が生まれる遙か前のことだが」
カイユウによく似た子。私は、カイユウの顔を心に思い浮かべていた。
聖「姿形ではないぞ、念のため。」
奈津観「・・・・。」
聖「雰囲気、と言っていいのだろうか。あの子から感じた雰囲気が、今の海雄君のものと似ている。」
雰囲気。あの、引き込まれそうな感覚のことだろうか。
聖「彼女も、人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。いや・・・あの子は、もっとはっきり拒絶の反応を見せていたがな。」
拒絶?
奈津観「拒絶って・・・・」
叔母はそこで黙ってしまった。話しすぎた、そう思っているのだろうか。
わたしも、無理に聞き出そうとは思わなかった。どうしても必要なら、また後で改めて訊けばいい。
日が落ちかけている。下駄履き姿の叔母が、腕組みをしたまま立っていた。
遠い目。昔のことを思い出しているのだろうか。あまり良くはない、遠い記憶を。
家の中に戻ろうとしたわたしは、その姿を見て訊いてみたいことができた。大切なことだと思った。
奈津観「その子は・・・昔のその子は、今どこにいるの?」
聖「空の向こう だろうな。」
叔母の見つめる先。それは確かに、見えるはずのない空の向こうだった。
佳乃「奈津実、元気ないね。」
聖「・・ああ。夕方、少し喋りすぎてしまったからな。その所為かもしれん。」
母と叔母が、わたしのことで何か言っている。
佳乃「叱ったの?」
聖「なにもしていないのに叱りなどしない。ただ、・・昔話をしてしまった。」
佳乃「昔話。」
うーん、と、母は考え込んだ後、言った。
佳乃「さるかに合戦?」
聖「違う。」
佳乃「違うんだあ。」
脳天気な会話が聞こえる。わたしはそれを背後で聞きながらも、自分は脳天気な気分にはなれなかった。
カイユウのことが、気がかりだった。
そして、今日の夕食のことも気がかりだった。
A.A.A.−FS.4終わり